中越沖地震

 柏崎にも通じている国道116号縁を北に進んでいるときに「パンクかもしれない」と運転している姉が言った。その日はすっきりと晴れそうもない曇り空。遊びたい盛りの小学三年生の姪と園児の甥をプールに連れて行く約束をしていた。新潟市の最南端にある西蒲区から目的地のプールまではおよそ20分。向かっている途中の出来事だった。それまでは気づかなかったが確かに車体が左右に揺れているのを自分でも感じ始めていた。
 とりあえず目の前のコンビニに車を止めタイヤのチェックを始めたけれど、素人目にはどのタイヤも大丈夫に見えた。とにかく一番空気圧が下がっていたタイヤの交換しようと作業をしているときに携帯電話にメールが届いた。その内容は新潟で大きな地震があったことを伝える内容だった。車を前後させ、異常がないことを確認するとコンビに入り公衆電話の場所を聞いた。すでに携帯電話は通話不能になっていた。返ってきた答えは「うらの施設にある」。すぐに公共施設に向かったけれど、あいにく休館日だった。ここで舌打ちを一回。周りを見渡しても公衆電話を見つけることができなかった。ここで二回目の舌打ち。諦めて車に戻り母親のいる実家に向かう。ラジオをつけると柏崎を震源として大きな地震が起きたことを伝えていた。震度は6強。震源地の柏崎からは約50kmの西蒲区の震度は5弱、原子炉は緊急停止したと伝えていた。仕事中の父親にも連絡はとれなかった。
「プールはどうするの?」と聞く姪に母親の姉は「こんなときに」と強い口調で戒めていた。周りは一面の緑色の絨毯。背丈が30cm以上に成長した稲が風に揺れている。田舎ののどかな風景は自分が子供のころから変わっていなかった。
 さて、実家の被害は水槽から水がこぼれていたのと食器棚の中で割れていたコップが4個、陶器製の置物が棚から落ちて割れていたくらい。姉宅でも神棚から榊立が落ちて床が濡れていた程度で良かったけれど、気になったのは被災地・柏崎と原発の様子。テレビをつけると住宅街の中で一軒の家が倒壊していた。チャンネルをはしごしながらいくつかの倒壊している家を見ていると、古い家ばかり倒れていた。その数は中越地震に比べ被害は少ないと思いながら眺めていると柏崎刈羽原子力発電所からの映像に変わった。トランスから出火したとのナレーションとともに敷地内から火の手が上がっているのが良くわかる。火が原子炉内に燃え移るようには思えず、稼動中の原子炉はすべて停止したとのことで胸をなでおろした。結局この火災は二時間以上も続き、消化システムがなおざりにされていたことが判明し批判の的となるが、そのときはどの局も指摘をしてはいなかった。
 夕方までには家族の無事も確認できた。余震の度に怖い思いをしたけれど翌日には関東に戻ってこられた。高速バスは平常運行だった。自衛隊ジープや赤いランプを点灯させた車を何台も見たし、頻繁に飛ぶヘリの音を何度も聞いた。非常事態には違いないけれど、数十キロの距離の違いで被害を免れた。幸いにも知人・友人に被害はなかった。
 7月21日現在でおにぎりなどが余りはじめたとの報道があった。ボランティアもさばききれないようで、待ったがかかっているようだ。新潟にいたのに東京で募金するのも変な感じがするが、今の自分にできることはそれくらい。後は祈ることだけだ。

 新潟県では2004年10月には中越地震がおきた。ここでは友人が被災した。その前の7月の豪雨では五十嵐川が決壊し母校が沈んだ。床上1m以上も浸水した家の中に友人の実家があった。ヘリで救出された知人もいた。できたことは微々たるもの。祈ることよりも天を仰いでいることが多いような気がする。