本年もよろしくお願いします。

 昨年末に祖母が鬼籍に入った。大正生まれで90歳を越えての大往生。それほど近しいとは感じていなかった。けれど、家族をとらえなおすいい機会だった。
 口数も少ない人であまり会話をした記憶がない。小遣いをもらう程度にはやりとりがあったはずだが、冗談をいって話したためしがない。父が祖母を受け入れたのは十数年前。それまで一緒に住んでいなかったし、ここ十数年は老健で過ごしていたので、同じ屋根のしたで暮らしたことはない。入所?したころはすでに会話はできなかったが、涙をながしたり、母をみて「お母さん」と何度も呼びかけていた。けれど、それも短期間でじきに反応しなくなった。食事はしっかりと食べていたようで(もちろん、自分の手を使うわけではない)、口内に運ぶと、咀嚼して飲み込んでいたらしい。年に数回会いにいく程度だが、「これで生きている」といえるのだろうかと何度も考えていた。正直にいってしまえば、物体として固まりがあるだけととらえていた。9月に一度、今日明日くらいにはと連絡があったがそれを持ちこたえていた。その後、一度だけ顔を見に行き、当分ないなーと話していた矢先に電話が入った。もう、その瞬間、どういう気持ち経ったか覚えていない。目頭は熱くなっただろうか。
 新幹線に乗り換え、故郷に向かった。車窓から足早に通り過ぎる景色をみながら「気づかなかったけど、家族」だったんだろうなと思えてきた。でも、なぜだろう。一時、危険な状態になってからは毎週のように電話で様子を確認した。いくえにも重なった記憶を掘り起こした。もしかしたら、ざわつきだしたまわりの動きのせいかもしれない。などと考えていた。試しに、近しい人から亡くなったと仮定し自分どれほど、どのように揺さぶられるか想像もした。結局、違いはあったが、明確な答えなどみいだせないまま最寄りの駅に着いた。ときおり貧弱な太陽光が差し込むなかをとぼとぼと歩いた。
 玄関の扉をあけると、線香のにおいがした。静かだった。正座をし、よこたわる祖母と対面したときに、正視はあまりできなかったけれど、「家族」だと確信した。脇には父親がいて、母親がいた。そんな様子みつつ「家族」になったんだなと思った。それは祖母を中心として生まれた「物語」を、意識しなくとも特別なものとして受け止めたからなのだろう。親類を含め、ほかの人が亡くなったときには決して生じることのないものだった。自分の力量がなくて、茫洋として確固たる言葉をかえられるものではないのだが、あらためて「家族」という言葉の一般性と柔軟さとを今、噛みしめている自分がいる。
 一連の儀式はつつがなく終わった。いままで顔をあわせたことのない親戚との対面など、田舎にありがちな光景が繰り返された。昔の写真が出てきて、意外な姿に驚いたりもした。やっぱり、取っつきにくい人だったようだ。そこかしこから聞こえる話を聞き、故人を偲ぶっていいものだと改めていいものだと思った。そして、祖父母がみないなくなり、次は両親の番なんだともこころに刻んだ。
 元旦にはひ孫をふくめると11人の大家族で、初詣の後に訪ねていた。その中心には祖母がいた。目もつぶり、反応すらなかったが、何かを共有できていたのかもしれない。もう訪ねることはない。自堕落な元旦に拍車がかかる。そして、今日で一ヶ月が過ぎた。ひさしぶりのブログを更新で、書いている途中で公開されていたたことにすら気づかなかった。いまごろ、実家ではお経がよまれていることだろう。

こんな内容でのスタートですが、みなさま本年もよろしくおねがいいたします。