ひどくむずかしい

 あらためて「いま」は災害の渦中にあり、非常時の「パニック」を見続けていると気づいた。20日がたち、落ち着いてきたとはいえ、地震の後にきた「躁」状態がいまだに続いているのですよね。少し感覚が麻痺してるのかもしれない。地震の被害者は刻々と増え続け、原発は冷やすという最優先事項の対応のために注入・放水した冷却用の海水処理の問題が顕在化し、ニュースに事欠かない状況。個人的には福島第一の二号機が水素爆発を起こしたときが心の「振幅」のピークだったと思うが、後からふりかえるとそれも変わるのかもしれない。
 少し「未来」を先取りした企画(採用は未決。時間の経過とともに「未来」を追い越しつつある)のためにリサーチをしながら、知人の編集者に送ったメールで書いたことだが、内部被曝ではないが今回のことで僕たちは「核」を「取り込み」、いかに「血肉化」できるかを問われているんだと思う。たとえば、微量の放射性物質の影響を受ける低線量被曝は、いくつかの仮説はあるが、疾病のリスクを上昇させる仮説と放射線による少しのストレスで細胞が活性化し健康に資する仮説(いわゆるホミルシス効果)がある。今後の見通しは不明である点もあるが、後者の考えなら水道の問題も違った文脈で語られたのではないだろうか。でも、僕はみかけていない。
 震災後、とくに良く目にするようになった寺田寅彦の「ものを怖がらなさ過ぎたり、怖がり過ぎたりするのはやさしいが、正当に怖がることはなかなか難しい」という名言は、震源から距離の離れた当事者である僕にさえ、「なかなか」ではなく、「かなり」難しいと切実に感じる日々だ。