共感の可能性

 『生きさせろ』、『格差社会』や『フリーターにとって「自由」とは何か』など、「フリーター」や「格差」のついた本を読んでいると、いつも「正直、しんどい」と思う。ため息まじりに読み進めたり、途中で放棄したり。ちょっとした苦行のようだ。ここから抜け出せるのだろうか(個人的にも集団としても)。
 当事者にとって現実を見つめることは、思考を停止させたくなるほど辛かったりする。この気持ちは自分のものだけれど、似たような立場の人が似たような事を言っていると、それは共感へとつながる。では、立場が全く異なる人は共感できないのか?答えは「イエス」だ。共に感じられる(と思える)土台がないのだから当然のことだ。でも、ひとは「わかって欲しい」と願い、立場が違っても伝えたいことがある。さて、その違いをつなぐものは何か?答えは「・・・・・・」。何でしょうか。僕にはわかりません。考えても道徳の授業で聞かれるような陳腐な言葉が出そうで、とりあえずは止めておく。でも日常的な感覚の先に「共感」といえなくとも、「何か」があるような気がしている。
 「不可視」だったものが明るみになり、それが社会や集団に受け入れられるまでには時間がかかる。そのスパンを短くできる手段はどこにあるのだろうか。