海老名市中央図書館の一方的な感想

 カルチャー・コンビニエンス・クラブ(CCC)が指定管理者となり話題の海老名市中央図書館に行く。数年前(10年くらい?)に数回利用した(たぶん2回)記憶がある。うろ覚えだがこぢんまりとしていた図書館で特に不便でもなく、館内が明るかっただけで特別な印象はなかった。いわゆる一般的な図書館だったと思う。ららぽーとがオープンして、さらに混雑するのは嫌なのでこのタイミングで足を運んだしだい。
 4階建ての館内に入るとまず左手にスタバ、右手にカウンターがあり中央にはまず平積みの雑誌と書籍、文房具、雑貨などがきれいに並んでいる。その先はおおむね右側に書籍が棚差し、中央に雑誌が面陳列されている。これらは一般販売用。このフロアーの中央に階段があり、そこを昇るといわゆる図書館ゾーン。但し、階段の奥にも図書館スペースがあり新聞と雑誌コーナー、あとはビジネス書が並ぶ。ここはTSUTAYAの戦略的配置になっている。というのは、まず中央図書館に置かれている閲覧用の雑誌が圧倒的に少ない。ホントに少なくてびびった。国内の一般ビジネスしは1冊もない。と思ってもいいほどだ。というのも壁を隔てた反対側が販売雑誌が所狭しとならんでいるから。同様に、貸し出し用のビジネス書も壁の向こう側が一般販売のビジネス書籍が並ぶ。
 2階に昇ると自然科学や建築、アート、料理、旅行、暮らし、趣味などの各カテゴリーに分かれて書籍が並ぶ。いわゆるCCCの独自分類。床に矢印と共にカテゴリーが表示されてこれは便利だった。というわけで自然科学から見始めた。2階、3階を何度か行き来して眺めた感想は極めて不便だということ。ネットで話題になっている独自分類と配架書籍のちぐはぐなズレについては、その通りなんだけれど、それよりも問題だったのが分野の関連性を無視した配架。例えば、自然科学が2階にあり、少し離れて家庭の医学があり、3階には医学と産業となる。この辺りの分野は関連性が高くて、経験上おおむね近接するように置かれていたと思うけど、海老名中央図書館の分断はちょっと辟易した。例えば脳科学とかは上記のどの場所にも分かれて配架され、行ったりきたりとなかなか大変。心理学も加わってくるから2階人文フロアーにも置いてあったりして大変。どうもUFOとか超常現象は人文フロア扱いだったりして、その次が心理学で心理学がかわいそうになる。
 批判の多い独自分類でも慣れたら便利なるのならいいのだが、ちょっと厳しいのではないか。それ以前に配架パターンが統一されていないのもやはり問題。分類のナンバリングしてあとは作者アイウエオ順ならそれでいいのだが、たとえばブルーバックスが一部ではアイウエオ順で並び、一部ではブルーバックスがシリーズとして並んでいたりする。このあたりはさすがに統一して欲しい。ただし、蔵書検索した本の位置が棚番でわかるのはありがたかった。
 他に気になったのは貸し出し禁止の定義かな。大辞典類が貸し出しできるのは利用者はありがたいだろうが、本当にそれでいいのか。何よりも9巻構成の海老名市史のうち2巻資料編・中世と6巻通史編・原始、7巻通史編・近世、9巻別編・民族に「禁貸出」シールが貼られていて、その他の巻には見られない。しかも、これらを含め郷土史関係は鍵のかかったガラス棚の中に並んでいる。。。すぐ側にいる職員に言えば鍵を開けてもらえるんですけどね。この点はどうも地元っぽいおじいさんが「何がどこにあるかわからん」と言いながら歩き、「郷土資料は鍵がいるのか」と職員に尋ねておどろいていたのが印象的だった。
 話題の図書館だけに平日の午後に人が沢山いたのは良かったのだと思う。おそらくテスト前で勉強にいそしむ高校生も多いし、僕みたいな見学者も多かったのだろう。有隣堂のネームプレートをつけたひとが館内を回っていたり、テレビ局の撮影も入っていた。こんな雰囲気でスタバもあり、一階で書籍の販売をしているせいか活気があるように感じてはしまうのだが、これは図書館としてはどうなのだろうかとは思う。いま思い出したが視聴覚資料はどこいった?
 実は昔、この図書館を訪ねたのは当然、本を借りるためで、住んでいた自治体の図書館にはなくて、近隣でもここだけだった。何を借りたかはいまでも覚えていて、館内の端末で検索してみるとーーなくなっていた。ちょっとこれはショックだった。それが冒頭の写真なのだが、いわゆる足利事件で管家さんが釈放される少し前だったと思う。一方的に残すべき本だったのではと思いたい。いろいろ都合もあったのでしょうが。
 仕事上、様々な図書館で本を借りたり、閲覧したりと本当にお世話になっていて、どこどこの自治体は蔵書が貧相だなとか、ここは穴場で予約が少なく新刊も早めに借りられラッキーなどと勝手に思っていますが、海老名市図書館を後にして用もないのに地元の図書館に足が向いたのはまぁ、いろいろ確認したかったから。こっちでよかったとは思った。
 ただ、関心したのはやっぱり演出で、無機質な図書館が過ごしやすそうにはなった。でも、図書館の大切な役割ははたしてそこにあるのか。いろいろ考る必要はある。
 最後に、海老名市中央図書館の雑誌コーナーにあったのは以下のみ。びっくりしませんか?これはこれでいろいろ考えるネタになりますね。

週刊新潮
週刊文春
Newsweek
Bloomberg Businessweek
・世界
・思想
ユリイカ
・ジュリスト
判例時報
法学教室
月刊新聞ダイジェスト
ナショナルジオグラフィック
日経サイエンス
山と渓谷
散歩の達人
・短歌
本の雑誌
・みんなの図書館
・武道
・BIRDER
・経済セミナー
・月刊福祉
・心理学研究
・考古学ジャーナル
・月刊文化財
自治研究
・視聴覚教育
家庭画報
・Driver
・ノジュール
・婦人の友
・House and Gueden
・The New Yorker
・都市問題
・リベラルタイム
・housing tribune
トランジスタ技術
・eTrans Learning

でこれは棚が設定されていたものだけ。実はLIFEは明示だけあり、雑誌が置かれていなかった。LIFEって廃刊じゃなかったっけ?

 

丹波市

 8月16日の豪雨で大きな被害を受けた丹波市に行ってきました。先週ですがね。現地のボランティアの方々を中心とした取材でした。仕事に差し障りのない写真をアップします。自治体や社共はとにかくボランティア団体との連携を密にしておくことが重要。災害が起きて社共が急にボランティアセンターを立ち上げても、うまくいかないのは当然。経験がないのが普通ですから、ノウハウをもった団体といかに協力できるか。などと考えながら帰郷。
 

というわけで

 明日(正確には今日ですが)はSTAPの調査委員会が最終報告を出すがかなりはやい印象。少なくとも2、3か月、正直もっと時間をかけると思っていた。中間報告では不正がひとつでも見つかればそこで終了する可能性を石井委員長が話していたので、その公表かと予想してみる。海外メディアが「シンデレラストーリー」と話していたのが印象的だったが、さてどうなるか。論文不正疑惑とSTAP細胞の存在が入り乱れ、撤回される予定の論文に付随する作成方法にそもそも何の意味があるのかなど、科学的検証を担保する論文をこえた領域でも、話題が展開しつづけたわけで、それほどインパクトがすごい研究だったてこと。知り合いとすげーとか言っていた時代が懐かしい。小保方さんの趣味的な話は完全にスルーして傍観していたが理研はうまいPRをしたなとは思っていた。はじめの疑惑で部分的にはアウトかなとは思っていたが、「疑わしきは罰せず」精神の鍛錬として経過を見守ってはいた。利害当事者だから客観性を不備を指摘されても、再現性の検証に丹羽研が自らとりかかりるいばらの道しか残っていなかったわけで、なんといってみようもない。
 いい結果が出たらそれはうれしいことだが、「ほれほれ、いわんこっちゃない結果OK」ってことにはならないはず。嵐が去ってからが本当の勝負なのだろう。

あれから3年(写真は陸前高田)

 地震が起きた時間は路上で黙祷。そして、取材を終え、福島のアンテナショップに立ち寄り帰宅。ままどおるをほおばりながら書いている。けっこううまい。この3年をどう評価したものかよくわからない。先週は震災から3年とは関係ない取材で石巻に行き、雪降る中そのまま駆け足で女川、陸前高田気仙沼、南三陸を見て周った。それこそ震災後にいってからなので2年ぶり。報道から特段期待しないようにと思って行ったけれど、それでもなんというか目に飛び込む光景それぞれが心を揺さぶる。
 がれきの撤去はほぼ終わり、大量の土砂と砂利を運び込み、土台を上げている。天候のせいもあるのだが色がない。グレーと土色で景色が覆われ、ダンプがそこかしこで動き回っていた。今後のために整備されつつあるがゆえなのだが、地面の上に建物がない風景は、津波の規模があまりにも大きかったのだと再考させるに十分すぎる。たちつくすだけで時間が過ぎていく。緩やかに進んでいた「後退」が吹き出し地域を破壊した。将来に期待を持てず、目に見えて進まない復興で倦怠感がただよい、人がどんどん出て行くのところで生活するのはどれほどのことか。あらためて言葉にして書き出そうとしても、自分に能力がなくいま被災地の記憶と言葉の乖離が激しいと感じる。
 愛着などなるべく持たないようにいきてきたけれど、どれほど小さくとも生活の場が愛おしいものなのだと思う。被災地に寄り添うことなど僕にはできないけれど、これからも頻度は多くはないが足を運ぼうと思う。情けないけどそんな決意しかできない3年目でした。津波で流されたりと印象的だった建物は当然だがほとんど残っていない。知っては板が気仙沼の大型船などもない。建物のない広大な土地をみて当時を思うのもいいですし、気仙沼の漁港、鹿折じゃないほうは少し建物が残っています。市と所有者がいろいろ合意し次第、おそら

く立て直しとなるそうなので、当時の名残を少しでも見たい方はそちらにどうぞ。南三陸も防災庁舎?は今のところ残っています。
 仙台で牛タンをたべたけど、やっぱりうまいと思わないんだよな。。。再現性ありです。すったぷ雑感は気が向いたら書きます。いろいろひどすぎた。

本年もよろしくお願いします。

 昨年末に祖母が鬼籍に入った。大正生まれで90歳を越えての大往生。それほど近しいとは感じていなかった。けれど、家族をとらえなおすいい機会だった。
 口数も少ない人であまり会話をした記憶がない。小遣いをもらう程度にはやりとりがあったはずだが、冗談をいって話したためしがない。父が祖母を受け入れたのは十数年前。それまで一緒に住んでいなかったし、ここ十数年は老健で過ごしていたので、同じ屋根のしたで暮らしたことはない。入所?したころはすでに会話はできなかったが、涙をながしたり、母をみて「お母さん」と何度も呼びかけていた。けれど、それも短期間でじきに反応しなくなった。食事はしっかりと食べていたようで(もちろん、自分の手を使うわけではない)、口内に運ぶと、咀嚼して飲み込んでいたらしい。年に数回会いにいく程度だが、「これで生きている」といえるのだろうかと何度も考えていた。正直にいってしまえば、物体として固まりがあるだけととらえていた。9月に一度、今日明日くらいにはと連絡があったがそれを持ちこたえていた。その後、一度だけ顔を見に行き、当分ないなーと話していた矢先に電話が入った。もう、その瞬間、どういう気持ち経ったか覚えていない。目頭は熱くなっただろうか。
 新幹線に乗り換え、故郷に向かった。車窓から足早に通り過ぎる景色をみながら「気づかなかったけど、家族」だったんだろうなと思えてきた。でも、なぜだろう。一時、危険な状態になってからは毎週のように電話で様子を確認した。いくえにも重なった記憶を掘り起こした。もしかしたら、ざわつきだしたまわりの動きのせいかもしれない。などと考えていた。試しに、近しい人から亡くなったと仮定し自分どれほど、どのように揺さぶられるか想像もした。結局、違いはあったが、明確な答えなどみいだせないまま最寄りの駅に着いた。ときおり貧弱な太陽光が差し込むなかをとぼとぼと歩いた。
 玄関の扉をあけると、線香のにおいがした。静かだった。正座をし、よこたわる祖母と対面したときに、正視はあまりできなかったけれど、「家族」だと確信した。脇には父親がいて、母親がいた。そんな様子みつつ「家族」になったんだなと思った。それは祖母を中心として生まれた「物語」を、意識しなくとも特別なものとして受け止めたからなのだろう。親類を含め、ほかの人が亡くなったときには決して生じることのないものだった。自分の力量がなくて、茫洋として確固たる言葉をかえられるものではないのだが、あらためて「家族」という言葉の一般性と柔軟さとを今、噛みしめている自分がいる。
 一連の儀式はつつがなく終わった。いままで顔をあわせたことのない親戚との対面など、田舎にありがちな光景が繰り返された。昔の写真が出てきて、意外な姿に驚いたりもした。やっぱり、取っつきにくい人だったようだ。そこかしこから聞こえる話を聞き、故人を偲ぶっていいものだと改めていいものだと思った。そして、祖父母がみないなくなり、次は両親の番なんだともこころに刻んだ。
 元旦にはひ孫をふくめると11人の大家族で、初詣の後に訪ねていた。その中心には祖母がいた。目もつぶり、反応すらなかったが、何かを共有できていたのかもしれない。もう訪ねることはない。自堕落な元旦に拍車がかかる。そして、今日で一ヶ月が過ぎた。ひさしぶりのブログを更新で、書いている途中で公開されていたたことにすら気づかなかった。いまごろ、実家ではお経がよまれていることだろう。

こんな内容でのスタートですが、みなさま本年もよろしくおねがいいたします。
 

iPS細胞でした

 すでに旧聞ですが、それでも書いておく。いわずとしれたiPSの山中先生がノーベル賞を受賞。TVの立て続けに出演され、これから大変ですが引き続き応援したいですね。お役人との折衝もしやすくなったでしょうし、何よりも募金が増えることを祈っております。臨床試験までみこしてこの研究を続けるのには、お金かかりますからね。ただし、選択と集中を上手く使い分けないと利用されるだけで終わっちゃうので(ESが良い例か?)。
 山中先生は若いし、事故などなければいつかとると思っていたのですが、個人的にはもうひとかた、John B. Gurdon 氏の受賞に感慨もひとしお。発生学をほんのちょっとかじった身としては教科書に載っていたこの写真のインパクトは忘れられない。画像はこちらをクリック
 さすがにセンスある選考だと思いました。というのも、一般的にはカエルのクローンよりヒツジのドリーが有名。一方、カエルノクローンは50年も前の発表ですよ。一般的にはカエルとほ乳類では隔たりが大きくて、同列に扱えないと思うでしょうが、それは普通の感覚。成長した細胞から、再び生体をつくりだせることを示したインパクトは、並べたカエルの数以上に当時は大きかったでしょう。僕らが経験したiPS細胞の論文をはじめてみたときのように。
 まぁ、他にも書きたいことはありますがまた後日。でも、山中ファクターが4つだから衝撃が大きかったけれど、はじめの論文で10個だとわかりました。だったなら受賞できたかな?この点は大いに気になるところ。まぁ、結果が4つだったのでどうでもいい話ですが。
 化学賞はGタンパクでこれもベーシックな大発見ですよね。おめでとうございます。

佐藤莞爾氏、急逝

 元巻町長で、現職の県議だった佐藤莞爾氏のがなくなったとの連絡が入った。語らず(らせず)の急逝。こちらとしては、いつかは話を・・・と思っていただけに残念。最後に見かけたのは、昨年。元気そうだったのにな。
 山口県知事選では自民、公明党の推薦を受けた山本繁太郎氏が当選したが、報道によると原発凍結だったようだ。環境政策研究所の飯田氏が立候補した影響であるとは思うのだが、問題は県内産業を鑑みつつ原発凍結の幟をあげさせられるか。4年後に凍結解除して、現職の強みを生かしつつ選挙されたら「脱原発派」は困難な状態になるのではないか。僕は原発廃止にも推進にも、維持にも疑問をもっているが、もし脱原発を望むのなら再度、強力な候補者をたてないと難しいだろう。民意が「脱原発」を望むのか、確固たる意志なのかを問われる選挙は4年後、8年後。旧巻町の町長選挙では、原発推進を掲げた候補者は辛酸をなめてきた。そこを乗り越えるとみられ、ハードルを越えたかにみえた町長が佐藤莞爾だった。それでも、結果的には原発計画は撤回された。
 脱原発を望むのであれば単純なパラフレーズは控えたいが、少なくとも一過的ではない長期的な意志表示が必要なのは確かだ。